「歓迎しない者のために」  03−08−31
                 ルカ9:51〜56 

 エルサレムに向かう決意を固められた主が、まず出会われたのは、主を
歓迎しないサマリアの村人でした。それに腹を立てた弟子は「彼らを焼き滅ぼし
ましょうか」と言うのでした。
 主のご生涯には、主を歓迎しない人たちがあふれていたことを聖書は語って
います。<言葉は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった>
(ヨハネ1章)。 これが主を取り巻く人々の姿でした。主の誕生の際にも「彼らの
泊まる場所はなかった」のでした。故郷でも歓迎されませんでした(4章)。
後にエルサレムにおいては、歓迎したかに見えた群集が、数日後には「十字架に
つけろ」と叫びます。実は弟子たちも、似た姿を持っていました。
 主が目的の十字架にかかられる時に、彼らは主を捨て、逃げました。
「彼らを焼き滅ぼしましょうか」という言葉から逃れられる人はいないのです。
それは、私たちも同じでしょう。

 しかし、主はこの時、歓迎されないであろうサマリア人の村を避けて進むことは
されませんでした。そこに、主の人との関わり方が示されています。そこを通って
行かれた主の進む先には、罪の赦し救いがあります。主は、歓迎しない背
(そむき)
に溢れ
(あふれ)た者のところにも、十字架による救いに至る道をつけるために、
その真っ只中に進んで行かれるのです。
 そうして、このサマリアの村からも、救いに至る道がつけられていきます。
背き溢れるその場所にも、主は救いに至る道を開かれました。だから、主は
「滅ぼしましょうか」との言葉を戒められます。滅びは、主が道を開いた故に、
もはや絶対のものではなくなってしまったからです。かえって、「救いの道に進み
出す邪魔をするな」と言わんばかりに、戒められたのです。

 歓迎していなかった自分にも、救いの道を備えてくださったことに、
驚き、喜ぶならば、人の滅びを願う言葉など出てきません。今歓迎していない
人も、主の備えてくださった道を進んで欲しいと願うはずです。
主のお望みになるのは、滅びではなく救いなのです。